祖母の矜持四 自由と身勝手をはき違えてはなりませぬ

 武家の躾を受けた者は、迷うことなどないのでしょうか。そのまま疑いもなく素直に、受け継がれてきた哲学や美学に基づいて生きていけるものでしょうか。  そうではありません。少なくとも祖母は父の教えに反抗心を抱いたことがあったのです。  祖母は高等女学校へは進まず、家の農業や縫子などといった内職を手伝うようになりました。女学校の教師になるためには進学しなければならなかったのですが、経済的な問題もあり叶わなかったのです。 「ただ、それじゃあ私は尼になるのか、それならどこぞの寺に入らなければならないわけだろうか、いったいこの先どうなるのだろうか、などとあれこれ娘心に考えての。やはりそういうときは人並みにつらかった」  自分がどこへ向かってどのように生きていくのか、しかもそれは自分一人の都合で決めることもできないわけですから、祖母の悩みも当然です。  明治三十七年に始まった日露戦争が翌年終結すると、軍需景気は急速に終焉を迎え、人々は高い税金と物価高を強いられました。街には失業者があふれだし、農家も自分たちの食い扶持をなんとか得るだけでも精一杯となったのです。  祖母はますますどのように生きていけばいいのか不安になりました。それが父親に対する反発心に置き換わっていったのです。  父親と自分とでは、生きている時代が違う。父の教えは、もはや通用しない過去の教えであり、そんなことを守っていては自分はますます生きづらくなるのではないか。いっそのこと父親の教えなど無視した方がいいのではないか。  そのほうが楽なのではないかとさえ、祖母は思ったのです。  特に日露戦争後の日本には、「自由主義」「自然主義」の嵐が巻き起こり吹き荒れました。 「私も友人たちのように、いっぱしに自由という言葉を使ってみたくてね。だけどその実、何が自由だかわかっていなかったものだえ。せいぜい厳しい父の教えから逃れるのが自由だと思ったぐらい。それでも女学校に通っていた友人をまじえて自由についてしゃべりあっていると、なんとも心地よい開放感があってのう。それがますます父への反発心に火をつけたのですよ。そうしたら父にひどく怒鳴られまして、それは恐ろしかったものですよ」  訳知り顔で論じている者と我が娘がいっしょになっているのだと思うと、曾祖父は我慢ならなかったのでしょう。 「たやすく風の流れに従うとは根無し草も同然じゃ。自由と身勝手をはき違えおって、そんなくだらん輩に迎合するぐらいなら、いっそおまえは孤独を選べ」  全面的に否定された祖母はじっと唇を噛み、かたちだけでも頭を下げて「わかりました」と返事をしました。そんな娘の様子を見た母親は、後からそっと言ったのです。 「セツ、ほんとうは親身になって話せる友がほしいのではないですか。おまえが友に話したいことは、自由主義のことではなかろう。安心しなされ、おまえがまごころを失わずにいれば、かならず本物の友ができます。ほんとうの自分を隠して人とつきおうても、そんなのは偽物です。一時の気を紛らわす相手ではなく、生涯の友を見つけなされ」  『論語』で孔子は次のように教えています。

 徳は孤ならず。必ず隣あり。/道徳は孤立しない。きっと親しい仲間ができる。

 祖母の時代に限られたことではありません。このところ「自由」についての誤った認識はますますひどくなりました。  人とちがってしまっても道徳として正しいのであれば孤立などしない。それどころかかえって真の仲間ができる。孔子の教えを、勇気をもって信じたいものです。実際に祖母はそれが真実であることを経験しました。 「母に助けられて私は確かに真の友を得ましたからね。それにやがては父のいう自由と身勝手をはき違えてはならないということも、ほとほと理解しましたよ」

祖母の矜持五 泣いても構わぬのは人の情けに助けられたとき

 祖母の得た真の友とは、会津藩士の末裔という生まれでした。千代さんというこの女性には、幼い頃、私も何度かお会いしましたが、まことに品の良い老婦人でした。品が良いといってもちっとも気取ったところがなく、むしろとても気さくで明るく、今にしてみると確かに祖母とは気が合うだろうと思うのです。会津の男は気骨があり女性も強いことで有名です。老年になってなお親しくつきあえるというのは、どれほど信頼し合っていたのかがうかがい知れます。  迎合してはならぬ、と教え諭された祖母は「自由主義」についてのおしゃべりに加わらなくなったため、「古くさくて堅苦しい」と言われるようになりました。失った左目が原因で控え目な性格にならざるを得なかったこともあるのでしょう。そのように受け取られることは祖母もわかっていましたが、やはり悔しい思いは捨てきれません。  千代さんと知り合ったのはちょうどそのころです。没落寸前となった一家をなんとかして支えるため、わずかばかりでも収入をと村を訪れたのでした。気の毒に思った曾祖父は働き口の世話をしました。その際、千代さんはうれしさのあまり、はらはらと涙を流したのです。  泣いてはいけないという教えを固く守ってきた祖母は、その光景にはっとして目をそらしました。 「すると母が、人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ。ごらんなさい、胸があつくなるようです。こんなに喜んでいただけて幸せだこと、と言うての。確かに心が動かされるようにきれいだった。ありがたい時に流す涙は礼を逸したりはしないということが、ようわかりましたよ」  二人は急速に仲良くなり、忙しく働く合間に行き来しておしゃべりするのが何よりの楽しみになったのです。  ある日のこと千代さんは、「セツさんは古武士のようだと言っている人がいたけれど、それはまったく素敵なことね。私は自慢したい思いだったのよ」と言ったのです。 「お堅いといわれるのがあんなにいやだったのに、千代さんにいわれたとたん自慢することのように思われたから不思議ですよ」  思いがけない千代さんの言葉にあっけにとられていた祖母は、しだいに目頭が熱くなるのを感じました。 「少し恥ずかしかったけれど、うれしい気持ちでしたよ。私が喜ぶのを見て千代さんも嬉しそうで、友とはなんと良いものだろうと思いました。それからはいっそう、涙はうれしいときしか流すまい、と思うようになったのですよ」