祖母の矜持二 空元気でも元気は元気。そのうち本当の元気が湧いてくる
祖母の生家は、維新後は帰農しました。「帰農」というこの言い方にはわけがあります。 武士といっても身分制度が成立するまでは、ふだんは田畑を耕す農民でした。そして、戦となれば鎧に身を固めて出陣するのです。 江戸時代となっても官位のある家はともかく中級から下級武士の家は屋敷の傍らに菜園を持つのが当然のことでした。その様子は千葉県佐倉市にある武家屋敷からもうかがい知ることができます。 そのほか機織りや扇子づくり、塗りなどといった様々な内職も認められていたということです。というのも、多くの武家の暮らし向きは非常に苦しいもので、禄だけでは一家はもとより家来衆を養っていくことはとうていできなかったためです。 武士は食わねど高楊枝という言葉は、このように貧しい武士の暮らし向きがあってこそ生まれた言葉といわれています。一般的には「やせ我慢」というように受けとめられていますし、それも間違いではありませんが、言い方を変えれば、どんなに惨めな暮らし向きであろうとも誇りだけは失わないという、強い心の現れなのです。 維新後間もなく武家は廃刀令によって武士の命である刀を奪われ、「武士」という身分さえも奪われ、そのうえ東北諸藩は幕府側についたために逆賊の汚名を着せられてしまいました。いつ住処を追われるかわからず、その日の糧さえ得るのが難しい暮らし向きだというのに、そのうえをもってこの扱いでは、どれほど誇りを傷つけられたかしれません。 心根の真っ直ぐな祖母は、維新後のこうした話を父親から聞いて、じじさまはいっそ自害するとは言い出さなかったのか、父はどうして耐えることができたのか、と、訊ねたことがあったといいます。 「すると父は笑い飛ばすような勢いで陽気に言ったのですよ。そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう。誇りを傷つけられたなどと自害しては相手の思うつぼじゃ。陰で奥歯を嚼んでいたとても平気の平左で生きてやるのよ。セツ、お前のじじさまは誇りをもって帰農したのだ。自らの食い扶持を自らの手でつくるのだ、誇りをもたぬわけがない。ばばさまにしたって、お前も憶えておろう、得意のお縫いやお仕立てで一所懸命一家を支えたではないか。どんな目に遭おうとも、どっこいそれがどうしたと、智恵と心意気で相対してやるのだ。士族が無くなろうと西洋張りの新日本国が生まれようと、武士の心意気が生きていることを見せてやるのよ。とまあ、想像もしなかったお返事だから、私は驚いてのう。けれど、これが天晴れということかと、私の気持ちまで晴れ晴れしたものです」 苦境に追い込まれて陰々滅々としてしまっては、再起を図る力など湧いてはこないことでしょう。落ち込んでしまう自分に打ち勝って、自ら陽気にしてみることは、乗り越える力を得る第一歩になるのです。 私が沈んだ様子をしていると、祖母は「空元気でも元気は元気。そのうち本物の元気が湧いてくるよ」ということがありました。苦労の多い人生を歩むこととなった祖母は、折々、曾祖父の力強い言葉と、その陽気さ元気さが自分の心を晴れやかにしたかを思い出したのではないかと思われます。そしてその都度、「武士は食わねど高楊枝」とばかりに胸を張ったのでしょう。 見栄を張るためではない、義に生きる誇りを守るための「やせ我慢」とは、なんと格好いいやせ我慢でしょうか。

