武士道は時代により、その現れ方が変わる
明治時代の日本は、文明開化の名のもと、富国強兵、殖産興業のスローガンを掲げ、西洋の大国と肩を並べようと懸命でした。けれど国の財政はひっ迫しており、庶民は貧しい暮らしを余儀なくされました。「何でも西洋のまねごとをするのが新政府のやり方か」と、民衆の不満が政府に向けられたのも当然です。 そして急激な西洋化による反作用のように、「日本ならではのもの」を見直す流れが生まれたのです。昨今も「日本的なもの」が注目され、学び直そうとするひとが年を追うごとに増えていますが、まさに歴史はくり返すといったところです。 新渡戸稲造がアメリカで『Bushido』を出版したのはちょうどそんな「日本文化見直し」の折り、明治三十二年のことでした。翌年日本でも出版され、多くの青年たちを魅了しました。 曾祖父は世の流れがこのようになると予想していたわけでありませんでした。ただ自分の信じることとして、武家の教育を我が子たちに教え諭していました。「真に正しきはとこしえに変わらず」という曾祖父の信念からすれば当然です。 ただし、曾祖父の武家の教育と新渡戸稲造が体系化した明治の武士道とは、少し違っています。 ひとくちに武士道といっても、古代、中世、江戸時代、明治以降と、時代によって変化してきました。一般的な武士道のイメージは明治以降から昭和初期にかけての禁欲的なもので、集団主義的・精神主義的なものです。特に「死」については美しく散ることに重きが置かれ、また、「忠義」についても、主君には絶対に従わねばならないという一方向の主従関係として受け止められています。 このイメージを形づくることになったのが、新渡戸稲造の『武士道』といっても過言ではありません。武士道を初めて体系化した書として高く評価されましたが、その内容は、江戸時代までに書かれてきた武士の書と照らし合わせる必要があります。たとえば鎌倉時代には『吾妻鏡』や『承久記』、現存する武将の最古の家訓とされる北条重時の『極楽寺殿御消息』があります。武将による家訓は戦国時代と称される室町時代にも、数多く残されています。あるいは江戸時代の書物からも、武士の美学と哲学を知ることができます。 それらは、新渡戸稲造の掲げた武士道が、武士道とは何かを正確に余すことなく伝えているものではないことを教えてくれるのです。 明治時代も後半になってから、なぜ武士道が書かれたのか。武士という存在が消えてから約三十年もの歳月を重ねてから書かれたという事実を加味すれば、そこにはいくぶんセンチメンタルな憧憬が含まれていることを考えねばなりません。人は、失われたものに対して、悲しくも美しいものを見出そうとするからです。 明治の武士道が極めてストイックであることについては、新渡戸稲造がキリスト教徒であること、それも、かなりストイックなクェーカー教徒であることを念頭に入れる必要があるでしょう。さらには、明治時代の軍人勅諭や教育勅語の影響もあります。
曾祖父の武家の教育もストイックですが、明治と異なるのはその背景にあるのが儒学であるという点です。徳川幕府が取り入れた儒教、特に朱子学の影響があるのです。武家の女性が、時には男子以上に厳しく躾けられたのは、そのせいもあります。 戦国時代が終わり平和な江戸時代が到来すると、武士は戦士から治者へとなっていきました。処世術を身につける必要があり、それを儒教の学びが支えた。儒教が日本に伝わったのは古代ですが、最も学ばれたのは倫理と礼節が重んじられた江戸時代であったと言えます。もちろんいつ戦が起きても対応できるよう、常在戦場の意識で武芸を磨くことは怠りませんでしたし、鎌倉時代や戦国初期の武将の生き様などから武士としての美学を学び続けました。
美しく生きるための武士道
鎌倉時代から戦国期の武士にとって、潔く死ぬことは、必ずしも良しとされてはいませんでした。『吾妻鏡』には「弓馬に携わる者が、敵のために虜になるのは必ずしも恥ではない」とか「運が尽きて囚人となることは勇士の常だ」といった言葉が見られます。 曾祖父が「死んでなるものか」と喝破したように、潔く切腹するだけが美しい生き様ではなかったのです。むしろ何一つ後ろめたいことがないのなら、正々堂々と生きていくのが武士です。 美しく散ることよりも、なんとしても生きようとする。 この場合、武士道は生きるためのものとして機能しているのです。新渡戸稲造の『武士道』や、三島由紀夫も愛読した『葉隠』に共通する「死の潔さ」とは、一線を画します。ちなみに『葉隠』は江戸時代の一七一六年に鍋島藩で成立したものですが、鍋島藩の藩校のテキストにさえなっておらず、佐賀県外で知られるようになったのは、実に明治末期の一九〇六年頃のことだとされます。新渡戸稲造の『武士道』がアメリカで出版されたのが一八九九年、日本語訳が出版されたのは一九〇八年(明治四十一年)。「武士道」という言葉を日本国民が認識し、それこそが日本の心だと位置づけたのは、明治も終わりになってからだったのです。 ただし、誤解のないよう述べておきたいことがあります。『葉隠』も、何も命を軽んじているわけではないということです。「死」をことさら強調したのは、やがてこの肉体が滅びることをできるだけ確かに掴んでおかねば、「生」の尊さを自覚できないからです。この命は必ず失われる宿命にある。そして命が失われた後も、その人の記憶は残ります。つまり「どのように生きたか」という記憶と共に、人の命は生き続けるのです。だからこそ、「いかに生きるか」が重要になってくる。 死して恥をさらすことがあるとすれば、それは、「どんな生き方をしたのか」にかかってくるのです。だからこそ「死を見つめよ」と戒める必要があった。 私はそう見ています。 「潔く死ぬことが美」とされたのは、一般庶民にまで「武士道」という言葉が行き渡った大正中期から昭和初期、戦前・戦中にかけてでした。つまり明治末期に編纂された武士道が、あたかも日本人の国民意識のように位置づけられていったのは、日本の長い歴史からすれば最近のことだったのです。 明治時代の国策とその意識によって編纂された武士道を、私はあえて明治武士道と呼んでいます。祖母は江戸時代の親から、江戸時代の武家の躾を受けつつも、明治武士道の影響を受けていると考えられます。

