一冊の本を一年通して読み進めながら、感じたことを自由に語る文学講座。独りでは読み進めるのが難しいような日本の古典文学を中心に選出しています。2026年は他の講座で毎回取り上げてきている岡倉覚三(天心)の『茶の本』を採りあげました。一年通してどんなことを思えたのか、受講者のレポートをご紹介いたします。

心に残る一節「まあ、茶でも一口すすろうではないか」
一年間の文学講座が終わる今、心に残る一節があります。
「まあ、茶でも一口すすろうではないか」
中東情勢など紛争が続いている今こそ、日常の暮らしの中で一杯のお茶を味わう時間がよりいっそう大切に感じます。
岡倉覚三が「茶の本」にこめた願い、それは東洋西洋が歩み寄り、互いに理解し合うこと、争いのない世界に茶道の精神が助けになると考えたからではないでしょうか。
その茶道の精神とは?
うまくは答えられませんが、講座の中で真理子先生に教えていただいた
「不完全なもの」を理解することが、見えない部分を知る入口になってくれました。
本の中でも何度か登場する「不完全」は、もともと否定的に感じた言葉でした。
ですのでお茶室において主と客があって初めて空間が完成するという、どちらか一方だけでは完成しない相互の関係性をあらわす意味だったことは意外な発見でした。
日本文化のさまざまなところに「不完全の美」は息づいています。美術、工芸作品など、対象と受け取る側との間に調和が生まれた時に美しいと感じる、何か目に見えない気配のようなものかもしれません。
自分に置き換えてみますと、作品が出来上がって終わりではなく、使う方がいて初めて完成するとも言えます。
私は「茶の本」を読むまで茶道は日本文化の嗜みの一つと思い込んでいました。各章を読み進めていくうちに、茶の成り立ち、禅との関係など、茶道が日本文化そのものであることが理解できました。そして何よりも大切なことは相手をもてなす気持ち、慈しみであると感じました。お茶室の空間というものは、ひとつひとつが主張しすぎることなく、すべてが調和した理想の世界ということが伝わりました。
本の内容とは別になりますが、心に残っているのが真理子先生と心さんが天心記念館を訪ねた動画の映像です。六角堂と旧家からの海の景色は自然の美しさ以上に、厳しさや人の気配が感じられない寂しさが胸に迫りました。
岡倉覚三という人物の生涯を想ったとき、この風景のような「厳しさ」「寂しさ」が感じ取れました。周りに理解されないことを恐れずに自分の信念を貫いた岡倉の姿勢はとても真似できないものです。でも誰かにわかってほしいという気持ちも本から伝わってきました。
書かれた明治の頃より西洋人にも日本文化の理解が進んだことは岡倉覚三も喜んでいるのではないでしょうか。
「茶の本」は利休の最期で終わっています。もしかしたら媚びへつらうことのなかった利休の生き方に自分を重ねていたのでは?そんな想像をめぐらせました。
「茶の本」は難しく数回読んだだけでは理解しきれませんが、真理子先生がおっしゃったように、わからないものを無理にわかろうとはせず、その時々で心が動くところを見つけながら、読み返していきたいです。和歌やお花、茶室のしつらえなど日本文化の美しさに思いを馳せて、あわただしい日常を少し離れた時間を持ちたいと思います。
一年間、真理子先生や皆様のお話のおかげで「茶の本」の深い世界を知ることができました。自分一人ではとてもたどりつくことはできませんでした。心豊かな時間をご一緒させていただいてありがとうございました。
(石川由香さん)
自分という存在が、大いなるものの一部だということに気がつきました。
「茶の本」は、ことばの使い方や意味が難しく、なかなか読み進めることができませんでしたが、講座を1年間受講し気が付いたら、日本語が身近に感じられるようになりました。
本の内容を「全部理解しなくてもよい」「すぐにわかろうとしない」「答えを無理に探さない」気になった文章をよく味わう。
さらさらと流れるように読むと作者の空気感に触れることができるような気がしました。
講座で真理子先生に読み解きをしていただくことによって、いろいろな角度から理解が深まりました。
「わからない」を自分のなかであたためることができ、時間が経って気が付くことがあるかもしれない。と思いながらこの本と過ごしました。
読み終えたときに感じたことはいつどんな時でも自分を大切にすることを忘れてはいけないということでした。
あわただしい毎日、ほんのつかの間の時間目の前の1杯のお茶を、心をこめていれる。心を落ち着ける時間をもつ。
そのような積み重ねを続けていくといつでも誰かと心がふれあうような、つながりをもつことができるのではないだろうか?自分という存在が、大いなるものの一部だということに気がつきました。
宇宙。全体。集合体の中の1つ。自分は全体でもある。
という言葉が浮かびました。そうすると「わたし」ではなく「わたしたち」という感覚になりました。
自らをもてなす心を忘れずにいたいです。
世界で一番浮世絵が残っているところはどこか?
それはアメリカの「ボストン美術館」だそうです。
岡倉覚三は1904年に渡米して「ボストン美術館」の仕事に携わり美術館に依頼をされて、たくさんの浮世絵を買い集めたそうです。「茶の本」は岡倉覚三がボストンに滞在中の1906年に出版されています。
日本ではなくアメリカにたくさんの浮世絵がある。
日本の芸術が残っている。
当時浮世絵は日本にあふれていて、障子の穴を隠すために浮世絵が貼られていたこともあったそうです。
現在同じように日本の文化、芸術が軽く見られているような気がします。
「失ってしまったら もう取り戻せません それでもいいですか?」と言われている気がします。
失われていく日本文化。
「今、私たちに何ができるのか?」と考えさせられる時間でした。
(矢壁友美さん)
自分の中に新しい宇宙(世界)を見ることができました。
美しい日本語で綴られた茶の本を読んで、この本に今の年で出逢えたことを有り難く感じております。
きっと10年後、20年後、30年後に読んだ時は今とはまた違うところに気づきがあるはずです。それが楽しみでもあります。
そして今の自分に必要だったことがたくさんありました。
この本を読む前の自分と読み終わった後の自分とは違いがあるはずです。
奥深い本なので、まだまだ理解には及ばないのですが、真理子先生のご解説で自分の中に新しい宇宙(世界)を見ることができました。
読み終わった後に余韻が残り、ぼんやり考える
自分を振り返る
なんて贅沢な時間なのだろうと思います。
自分の中にあった花の生け方や絵画の楽しみ方、茶道に深みがでて色づいていきました。
それだけではなく、日常の暮らし方、些細な仕草など。
禅と日本人の暮らしは深く関わっていた事を知り、だからこそ全てのことが「和する」ことに一貫しているのだと思いました。
私が特に心に残った文は
「物質こそわれわれを奴隷にしたものである」
「なにゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか」
「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く」
「人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれる」
「人間は生来簡素を愛するものであると強調して、人情の美しさを示してくれた」
です。
茶道は脈々と受け継がれてきた日本人の生き方を自分で感じながら学ぶ空間であり、ただの作法の習い事ではないことが分かりました。
茶の本は岡倉天心という1人の人間の人生を深く掘り下げて体感できる本だと思います。
激動の人生を送られた方。今このような人間性を持った方に会えるかどうか、おそらく難しいはずです。
だからこそ、茶の本を通して岡倉天心のいう人に触れられる事が、茶の本が世に残った幸運だと思います。
茶道は各々の人生の重みが投影される素晴らしい日本の伝統です。
最後は簡潔になってしまうのですが
日本人でよかった。早く茶室という空間で受け継がれてきた日本を味わいたいです。
(吉宗瞳さん)
この本には様々な問題を解決するためのヒントや希望が書かれている。
「茶の本」は茶道について書かれたものであるが、本質的に日本の精神性や美意識、文化について述べられていると感じた。特に第一章では「和」の精神について様々な言い回しで表現されており、最も面白く感じた章である。
全体を通じて、日本語としては読める内容ではあるが、現代では見られない文章表現が多く、理解することが難しい。時代背景の違いもあるだろうが、今のように「わかりやすい」表現があまりみられない。それゆえに「どういうことなのだろう?」と考える余白が絶えず生まれるという深みがある文章表現となっている。
一方で、直接的でわかりやすい表現は度々出てくるが、それもまた日本の美意識や価値観を表していると感じる。「全てを見せる(わかりやすくする)ことではなく、あえて隠すことで、かえって本質を際立たせる」というところに“美”や“粋”を感じるのだ。私自身も表現者として、こうした美学や哲学を根幹に置き、磨き続けていかなければいけないなと、深いところに楔が打ち込まれる想いを抱いた。
もう一つ印象に残っているのは「相対的」という表現である。西洋と東洋の対比においても、この言葉が使われている。絶対的なものに対し、相対的であるということ。それは、完全に対して、不完全という価値観の違いとも言えるだろう。
私たちは幼少期から「答え」探しの教育を受けている。その影響により「答え」や「正解」を求めてしまう習慣が、すっかりと身についてしまっている。この世界には絶対的な「正解」は存在しない。そのことを頭では理解していたとしても、無意識のうちに「答え」を求めてしまう。
そのため、分かりやすさが重視された情報で溢れている。その結果、失ったものは計り知れない。分かりやすいということは引っかからないということだ。引っかからないから、刺さらない。
刺さらないから、残らない。つまり、問いを持たないし、持てない。考える力を失ってしまったということになる。こうして、人も、モノも、社会も、あらゆることが表面的で薄っぺらいものになってしまっている。
「答え」や「正解」を求めるのは、安心を得たいからだろう。ただ、それは幻想で、あくまで一時的に安心感を得られるものでしかない。なぜなら、それらは自分の外側にあるものだからだ。自分の内側から出てきたものでない限り、自身と分離した関係性であることに変わりはなく、絶えず自分の外側に安心感を得るための“何か”を探し続けなくては行けない。それは、調和とはかけ離れた、あり方や、生き方であり、自分を見失っている状態と言っても良いだろう。
仏教思想では、この世は無常であると説く。絶えず変化し続ける、うつろいの世界で私たちは生きている。変化し続けているのだから、そこには絶対的なものはないということになる。変化し続けるということは、絶えず“未完成”である、とも言える。完成するということは、そこで終わりを遂げるということであり、つまり“死”を意味する。それゆえ、「不完全の中に“美”は宿る」という一文が、私の中で今も深く響いている。不完全とは一体どういうことなのだろうか。その答えは一つではないし、これからも問い続けることだろう。道教の中心概念である「道」ということだろうか。終わりはなく、ずっと考え続けることが重要で、誰かから教わるものでもなく、自ら体感を以て感得するものだと感じている(それを悟りというのかもしれないが)。絶えず成長、発展していく、未完成のままで生きていく、そこに“美しさ”が宿るということではないか。生きていく中で抱く、苦難や葛藤。あらゆる経験が、人や物事の深みとなり、重力となる。きっと、そこに“美”が宿るのではないかと感じている。
今もなお戦争は絶えることなく続いている。この状況を岡倉覚三が生きていたら、どのような皮肉で表現するだろうか。「茶の本」の初版がアメリカのニューヨークで出版されたのは1906年(明治39年)だ。今から120年前に出版され、国内外問わず多くの人に読まれているにも関わらず、世の中から争いはなくなることはない。経済至上主義がもたらす影響は、必ず争いを生み、多くの人を不幸にしている。また、テクノロジーの進化は便利さと引き換えに、人間の感性を奪い、人間らしさを損なわしめている。その結果、心身ともに不健康となり、モノや情報で溢れてはいるが、豊かさを感じられないという矛盾を生じている。
「茶の本」で書かれている本質を、今こそ多くの人が学ぶべきではないだろうか。様々な問題を解決するためのヒントや希望が書かれている。「和」の心を芽生えさせ、育み、開いていく。
レンチンのようにすぐには解決できないにせよ、少しずつでも調和が図られていくだろう。ただ、問題は、世の中の多くの人が浅はかであるということだ。「茶の本」をはじめとする日本文化や精神は、国内外で注目や関心を集めている一方で、表面的なところだけを消費し、また壊され、失われている現実がある。そのことは日本の観光(インバウンド)政策などをみれば明らかだろう。
本質的なものに触れる機会だけでなく、伝えられる人がいないということも大きな問題としてある。「茶の本」は文学講座を受講する前に、一度読んだことはあるが、自分一人で読んだ時には多くのことが理解できない、入ってこない、という未消化状態に陥ってしまっていた。文学講座で、参加される方々の感想や真理子先生の解説を交えて、改めて「茶の本」に触れてみた時、自分一人では得られない世界に触れられることができたと感じている。このような経験を踏まえて、どれだけの深みがある世界なのかということを知ることが出来たといっても過言ではない。
長い歴史を経て、培われてきた「和」の精神を、茶道を媒体にして触れることができる時間は、これからの人生や、写真表現に、きっと息づいていくだろう。
(魚住 心さん)
「茶の本」の日本語は本当に美しい
今年度、石川真理子先生をはじめ、皆様とともに「茶の本」に学びあえ、大変、充実した時間をすごすことができました。ありがとうございました。
正直言って、答えられるかしらと思いましたが、皆、違っていいのだと分かり安心致しました。
最初のころは、調べがとてもきれいでしたが、とつとつとした、読み方しかできませんでしたが、学びが深くなるにつれ、流れがよくなることを感じました。「茶の本」の日本語は本当に美しいですね。最後に、皆様と一緒に音読させて頂いた時、何か一つになったような感覚でした。
内容も難しいと思っていましたが、先生がおっしゃられましたように意味にとらわれすぎていて、岡倉天心の理解されないさみしさや、そして歴史や背景が少しずつみえてきますと少しずつ、理解できるようになりました。
真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。
茶室においては自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任されている。とありました。
昔、習い始めたころは、ただ作法を覚えることしかありませんでしたが、茶室にはいった瞬間に静寂な中に、何かが違うことだけは覚えております。
そして今、茶の湯は禅の儀式の発達したものであると学び茶室の中にすべてのものがあるとわかりました。
自分を知ることほど、難解なものはありません。しかし人間は「不完全なもの」と知れば人は皆違っていいのだということ、人に対しては、自分を少しおいて、相手を理解してみること、それは自分を大事にすることにもなるのだと思いました。
「自分をもてなすことが大事ですね」とどなたかが、おっしゃいましたが、自分を大事にできないのに人を大事にできないのだと、ここに人間学もありました。
道端にひっそり咲いている草花を茶室に飾ったらと想像すると、どんなものでも生かされているのだと感じます。
最後にお茶を頂く時間をもっと大事にしようと思いましたし、頂くお菓子、お盆、急須、お茶の銘柄に注意がむくようになりこれからが楽しみです。私もこの本を良書としてこれからも読み深めていきたいものです。心豊かな時間をありがとうございました。
(二村麻紀子さん)

「こうすればこうなりなす」「これをやれば叶います」
そのような講座やセミナーが大半を占める中、文学講座は答えを求めるものでもなく、「簡単でわかりやすい」というものでもありません。
けれど、教養という「人間の深み」に直結するものは、時を経て熟成させていくものであり、簡単に得られるものではないのです。
この講座では、そうした熟成を何より大切にしています。
ご興味のある方は、お問い合わせください。

