「表現の不自由」は本当か
愛知トリエンナーレにおける
『表現の不自由展 その後』に関して
私になりの見解を述べさせていただきます。
社会のファジー面は人の善意に支えられている
私たち人間がつくる「社会」というものは
法律などで完全に規制することができないものが多くあります。
むしろ、法律により規制できないことのほうが
ずっとずっと、多いのです。
つまり、社会というものはものすごくファジーであるわけです。
その法により規制することができない
ファジーな面における秩序というものは
人間の善意に頼るほかない、というのが実際です。
ですから、諸国は宗教によって
人々に道徳心を学ばせて、善を選びとりながら
社会を構成していく人物になれるようにしたのです。
日本においては、武士道もその役割を果たしました。
愛知トリエンナーレにおいて
昭和天皇の御影を踏みつけたり燃やしたりする展示や
慰安婦と見まごう少女の展示は
「表現の不自由」という当てつけがましいタイトルと共に
「表現の自由」を笠に着た、
善意とはかけ離れた、品のない、やりたい放題の展示であり
どこが芸術であるかということさえも
わからないようなものに過ぎません。
法的規制の及ばない、ファジーな側面を支える「人の善意」に守られながら、
「人の善意」を踏みにじり、泥を塗り、傷つけて、火をつける
そういう行為であるのです。
そこに、多くの人が傷つけられるのは
当然の結果と言えましょう。
社会問題は個人に帰結せざるを得ない
物議を醸し出した展示が中止となりましたが
口から出た言葉を、口の中に戻すことができないように
人々の記憶からも、消え去るわけではありません。
私としては、愛知県知事は、最高責任者として
全国民に平身低頭謝るべきではないかとも思います。
しかし、知事は責任問題を追及されると
憲法21条の表現の自由を保証する内容を持ち出して
逆に挑んでくるという始末です。
ただし、愛知県知事の指摘により、
「表現の自由」という極めてファジーなエリアに
法が入り込んできている、ということも
実は、今回の問題でもあるということを示唆しました。
歴史的なことを申しますれば
江戸時代まで・・・もっと正確に言えば
明治憲法が発布されるまで
日本人は「法」よりも「徳」により
それぞれが責任を持ちながら、社会を形成してきました。
だからこそ、「お互い様」という言葉もできるのです。
憲法があるために、何でもかんでも憲法が解決してくれるような錯覚を抱きがちですが、
本当は、道徳心により解決されることの方が多いのです。
みずからを律する人が極めて少なくなった今
今回の問題と類似する出来事が
今後は増えていくことが予想されます。
その時、私たちの国、日本は
まちがいなく国家としての品性を落としていくことになるでしょう。
そのような事態を防ぎたいと願うのであれば
やはり一人一人がしっかりと
自らを律して、善を選びとりながら生きていくほかありません。
