神様との約束。私の場合。

私は地球を美しくするために⽣まれてきました。

などと⾔えば、⼈によっては「この⼈、⼤丈夫かな」と思うでしょう。
⼤仰に感じる⼈もいるかもしれません。

それくらいは私もわかるので、ずっと⾔えませんでした。

だけど、五⼗代も後半になり、もう、⾔葉にしよう、明⾔しようと決⼼したのです。それは⼼の奥深く、たぶん魂といっていい領域にある⼤切な想い。

おそらくは、神さまとの約束なのだろうと思えるものです。

いえ、そんな神秘的な話ではなく、 私⾃⾝が「私はこのために⽣きる」と意図したものといってもいいのです。

いずれにしても、 私は、この世界をもっと愛のあるものへ、この地球をもっと美しいものへとしたい、という願いを抱いて ⽣まれてきたことには、間違いありません。

それは、ごく幼い頃に遡ります。

魔法使いになりたい

三つのころ、私にとって世界は愛に満ちていました。家の庭で遊ぶくらいで、あまり外には出たことがなかった⼦ども時代。
⽊々や花には妖精たちも暮らしており、私には孤独というものがありませんでした。
それが⼀変したのは七つのときです。

餓死⼨前の⼦どもの写真を⾒たのです。

ちょうどベトナム戦争の頃でしたから、戦争写真だったのだろうと思います。
なぜ⾒たのか、どこで⾒たのかはわかりません。

私は衝撃のあまり、引きつけを起こしたのでした。

私はこの世界には壮絶な悲しみや苦しみがあることを知ったのです。そして、「そんなことはあってはならない」と、強烈に思いました。

それは時間が経つほど強くなり、いつしか「この世界から悲しみをなくそう」と決⼼したのです。

魔法使いになろう。
魔法の杖で世界中の悲しみを消していくんだ。

…まだ、魔法を信じていたのです。
本ばかり読む⼦どもで、魔法の本が⼤好きだったせいもあります。

でも、これ以上ないほど真剣な思いだったのです。
それだけに「魔法」も「魔法使い」も空想物語だと知ったときには、ショックでした。

「だったら、なぜ私は⽣きているのだろう」

次の問いかけが⼼の奥底から⽣まれたのです。

人はなぜ生まれ、何のために生き、死ねばどこへ行くのか

私はなぜ⽣まれてきたのだろう。
望みを叶えられないのなら、なぜ⽣きてなければならないのだろう。

そうなのです。
「⼈はなぜ⽣まれ、何のために⽣き、死んだらどうなるのか」という哲学的問いを、私はずいぶん早い段階で⾃分の中に抱いたのです。
やがて武⼠の娘だった祖⺟が亡くなりました。私は12歳でした。死を⽬の当たりにしたことにより、⽣きることへの問いかけは、ますます強烈なものとなったのです。

死とは何か。
⼈はなぜ⽣まれ、⽣きるのか。
⼈⽣とは何か。どうせ死ぬのになぜ⽣きるのか。

思春期の少⼥にとって、重すぎる問いでした。
同じようなことで思い悩む友達はひとりもいませんでした。
私はあきらかに浮いていました。たくさんの⼈の中にあって、孤独感はいや増しになりました。寂しさを払拭するために、どうにか「⼤多数」になっていきたいと願いました。

けれどそれは堂々巡りでしかありませんでした。
懸命に「ふつう」になろうとしては⾃分を⾒失い、そんな⾃分をイヤになる。やがて孤独であることを好むようになっていきましたが、社会で⽣きていく上では、あまりにも私は脆弱だったのです。
そんな状況は歳を重ねるほど深刻になり、ついには、すがりつくようにして「武⼠道」を学び始めたのです。
それは「蜘蛛の⽷」でした。何があってもくじけることがなかった祖⺟に、もう⼀度、会いに⾏くような想いでもありました。

⽣きるための武⼠道

独学で、夢中で武⼠道とは何かを探究しながら、私は⾃分の中に⽣まれては⾏き場を求めてやまない「想い」を、⽂章に落とし込んでいきました。
随筆や⼩説を書き、⼀⽅で「書く」ことを仕事にもしました。
仕事では広告や雑誌の記事を書いていたに過ぎませんが、どこか繋がっていたと思います。
仕事を通じて様々な⼈と出逢ったのですが、それはとりもなおさず「⼈⽣に触れる」ということだったからです。

私は、私が死なないように武⼠道を学びました。
そうです、⽣きるために、それも、⼒強く⾃分を⽣きるための武⼠道です。

暗中模索の中で⾒えてきたひとすじの光は、宇宙の本質に繋がるものでした。
武⼠道とは⽣きるための礎であり、その本質は⼤いなる愛に他ならないことを知ったのです。

この⾜下は世界へと広がっている

⻑い時間が過ぎていきました。
それでも、いつしか私は、⾃分を愛することが出来るようになったのです。
⾃分の尊さを深いところで気づくことができ、この⼈⽣は死を以て終わるわけではないと確信しました。
⾁体は滅びても命は⽣き続けるのです。
その確信を抱いたことにより、私は死ぬことが怖いと感じるようになりました。
怖いというより、「残念」という⾔葉の⽅がより正確です。

この⾁体を与えていただいたことによって、私は私を⽣きることが出来る。これまでの出来事がすべて神さまの贈り物であったことに気づいたのです。
喜びはもちろん、悲しみも寂しさも、この⼈⽣そのものが愛おしい。⾁体があることによっていただいたものを、終えていくことが淋しいのです。
だけど、だからこそ、いつ死ぬかわからないから、今⽇を精いっぱい⽣きようと思えるのです。
そして、精いっぱい⽣きる私を、⾒えない⼒が全⼒で⽀えてくれているのを感じます。

たくさんの⼒をいただきながら、私はもうひとつの「命題」に向き合っています。

そう、世界をどうするか、です。
この世界から、どうすれば悲しみ(特に戦争による悲しみ)をなくすことができるか、です。

まずは、私の中から争い(葛藤)をなくすことが重要でした。
そして、私の中に平和をつくるのです。
それには、⾃分⾃⾝を普遍的な愛で満たしていくことが⼤切でした。

次に、⽬の前の⼀⼈の⼈を⼤切にするのです。
⾃分の内側から溢れ出た愛を、⼀⼈⼀⼈に⼿渡ししていく感覚です。
そんなふうにして、和らぎを波紋のように拡げていく。
いつかそれが世界に広がる時が来るかも知れないのです。

⾃分の⽴つこの⾜下は地球。
世界へと繋がっている。
だからこそ、この⾜下から始めよう。⾜下から愛で満たしていこう。

それは、確信にまで⾄っています。

魔法のペンと、魔法の言葉

幼い頃に抱いた夢は、叶えられました。
魔法はおとぎ話ではなく、本当にあるのです。

私は魔法の杖の代わりに、ペンを⼿にしました。
私の⼝から紡ぎ出される⾔葉は慈しみを伝える魔法の⾔葉です。
今も世界は悲しみで覆われています。けれど同時に喜びも確かに存在しています。
戦争は、なくならないかもしれません。悲惨な出来事は消えないかも知れません。
それでも、美しい世界を⼼の中から失ってはいけないのです。

いっぺんに世界を愛で満たすことはできなくても、ひとりひとりを⼤切にすることをやめなければ、いつか、もしかしたら・・・。

私はもう⼀度、幼い頃に戻って、そんな夢を抱いているのです。
⼀⽣、夢を⾒続けていこうと決めています。
そんな⽣き⽅が、誰かの励みになるのなら、こんなに嬉しいことはありません。

今、そんな私を⾒て、神さまが喜んでくださっているのを感じます。
亡き⽗⺟が、祖⽗⺟が、ご先祖さまたちが微笑んでいるのを感じます。

このサイトを訪れ、ここまで私についてのことをお読みくださったあなたへ、⼼からの愛と祈りを捧げます。

石川真理子