有り難いのは私の方

何度あっても、滅多にない希有なこと
セミナーや講演でお話させていただいた後
ご感想とともに
ありがとうございました
と、お礼のお言葉を賜ります。
中には、本当にご丁寧なメッセージと共に
何度も
ありがとうございます
ありがとうございました
とあります。
あるいは、拙著をご高覧くださった読者の方から
私の予想を遥かに超えたご感想と共に
お礼の言葉を賜ることも多々あります。
実にもったいない気持ちになります。
そして、心の深いところから、しみじみと
ありがとうございます
という言葉、想いが沸き上がってきます。
当たり前と思ったことは
一度もありません。
その都度、希有なこととしか思えないのです。
そして常に思うことは
有り難いのは私の方
ということです。

なぜ弱者が存在するのか
人はみな、弱いものです。
でも、その中に、生まれながらに、あるいは大事故や大病により
他者の手を借りなければ生きるのが難しい人がいます。
そういう方々のことを、一般的には弱者とされています。
鎌倉時代の御成敗式目には
弱い立場の人を慮る条項がいくつもあります。
仏教の本質である「慈悲」に則っているためです。
ある和尚さんの法話だったか、
あるいは本で読んだ仏教の説話だったか忘れてしまいましたが、
人の助けを得なければならない弱い立場の人がいることの大切さを、
こんなふうに解いているのを思い出します。
ここではかなり要約してご紹介します。
この人がいるから、私は自分の力を役立てることが出来た
この人を助けさせていただいたことによって
私は私の存在意義を見いだすことが出来た。
なんと有り難いことだろう
「助けた」のではなく「助けさせていただいた」のであり
それにより、助けられたのは、むしろ
自分自身というわけです。
人は一人では生きていくことは出来ない
こういうことを考え合わせていくと
人は一人では生きていくことは出来ない
ということが、つくづく理解できます。
「孤の社会」ともいわれる時代
一人の方が気が楽だと想いながら
生きている人は少なくないと思いますが
実際は、どこかで、何かに、誰かに、
必ず助けられ、支えられているはずです。
文明が進んで、便利な世の中になったために
そうしたことを実感することが難しくなっているだけのことです。
もし、誰かが「ありがとう」と言ってくれたとしたら
そのとき、少し立ち止まって
「ありがとうを言ってもらえた自分」を
見つめてみるといいかもしれません。
深く深く考えていけば
「ありがとう」を言うのは自分の方だ
そう、気がつくことが出来るかもしれません。
