審美眼は「数寄」から

年々歳々育ちゆく「まなざし」


うつわに興味を持つようになったのは、いつごろからだろう?

ふと、そんなことを思いました。

高校時代には、お夕飯のお料理を載せるお皿なり、大小の鉢なりを
選んでいたものです。
たいていは母が選ぶのですが、
母の作っている料理をのぞき込んで

「これに盛りつけて」といって頼むのです。

あるいは自分から、
「うつわ、これでいい?」と、母に問いかけて
私が盛りつけていました。

17歳のころには、そんなふうでしたから、
素朴な関心を持つようになったのは、もっと前のことになります。

素朴な関心、というのは、

「これ、好きだな」
「あたたかいミルクを飲むなら、このカップがいい」
「おやつのビスケットは、このお皿に」

そういったことです。

これは恐らく、おままごとの延長線上といっていいのでしょう。

だけど考えてみると
この「おままごとの延長線上」は、案外、大切なものかもしれません。

これが好き

という気持ち。
よくいう「数寄」の扉は、ここにあるのでしょう。

数寄とは、簡単に言えば、風流や風雅を愛する心のことです。
特に茶の湯をはじめとする芸能などに凝る人を数寄者といいますが、
「これが好き」という素朴な関心から
どんどんその世界に引き込まれて
いろんなものを見て学んでいくうちに、
「ものの良さ」「良きもの」がわかるようになってくる。

つまり、
審美眼という、「ものを見る目」が
だんだんと育ってくるのでしょう。


道具屋に骨董屋、展覧会
数寄はいつのまにか募っていく


「ものを見る目」は確実に育っていきますが
それには外せない条件があります。
それは、よくいわれることですが

「本物」を見ること。
それから
ふだんから良いものに触れること。

私の場合、母がとてもこだわる人で
お気に入りのお店もいくつかあり
作家ものを購入したりしていましたから、
幸運な環境にあったと思います。

でも、たとえ母娘であっても、趣味は異なりますから
次第に自分で選びたくなるのです。
一緒に道具屋や骨とう屋、うつわ屋さんに行っても
「私はこっちのほうがいい」ということが出てくる。

さらには、展覧会などに出かけていって
歴史に刻まれるようなうつわを眺めているうちに
「こういうのいいな」
という好みがますますはっきりしてきて
目はさらにやしなわれることになります。

好きこそものの上手なれで
何の努力もなしに、いつのまにか、ある程度、
ものをみるまなざしができてくるのでしょう。

そこまでいくと、今度はやはり窯元です。
窯元にまで行って、できあがる課程などにも触れると
「数寄(好き)」はさらに募っていくのです。

少しだけ背伸びして「本物」を



そうなると、やはり本物がほしくなります。

できれば手の届く範囲で購入してみたいものです。

私も、少しだけ背伸びして購入したもののひとつが
この萩焼の茶器セットです。
煎茶道で使います。

箱もついています。
「松月」という窯元で購入しました。


この、箱からひとつひとつ取り出して使う
それがまた、すごく嬉しいのです。


煎茶道は、習ったことはないのですが
見よう見まめでやってみたりします。

おちょこみたいに小さな茶器で煎茶をいただく

これが、なんとなくまた、おままごとっぽくて
ちょっと楽しい気分になるのです。

この茶器は、さすがにふだん使いはしませんが

「今日は特別」という気分の日や、

お客さまがお見えの日に使っています。

そうやって使っていくうちに
焼きものは、どんどん変化していきます。

お気づきかどうか・・・
この急須は、もうすでに色変わりしています。

その変化もまた、楽しいもので

変化した際の美しさを見いだすのも

「審美眼」の要素なのだろうな、などと思っています。