潜在的不安の時代

1.令和の幕開けと、かりそめ「明るさ」

今年(2019年)、日本は平成から令和へと元号が変わりました。
「改元」を経験するのは、昭和生まれなら二度目ですが
平成生まれの人にとっては初めてとなります。

昭和から平成への改元と決定的に違うのは、
「明るさ」だったように思います。

昭和天皇の崩御に伴う「平成時代」の幕開けは
重苦しさと、軽い違和感の中で迎えられたものでした。
それは、昭和天皇の国葬の日が、冷たい雨に塗り込められたような
実に陰鬱な日でもあったからかもしれません。
陽気になれない理由が、はっきりとあったわけです。

令和元年の幕開けは、実におめでたい雰囲気で
全国各地、どこもかしこもお祭り騒ぎであふれていました。

ただ、これは単なる「明るさ」ではないな、と感じました

表層的に明るく見えるだけではなかったかと思うのです。

2.「漠然とした不安」と「潜在的不安」

私がその明るさの中に見たのは「不安」でした。

芥川龍之介は「漠然とした不安」を感じるとの言葉を遺し自害しましたが

この場合は、「潜在的な不安」と言うべきかと思います。

「漠然とした不安」というのは、理由がよくわからないがゆえの不安とでもいいましょうか。

それに対して「潜在的な不安」は、理由はなんとなくわかっている上での不安ではないか。

そんなふうに考えます。

いま、日本人は、ほとんどすべての人が「潜在的な不安」を抱えて生きているといっていい。

その理由は、少子高齢化社会であり、環境問題であり、年金問題であり、国際社会における問題であり・・・と数え上げればきりがありません。
もっと簡単に言えば「健康」と「お金」といっていいかもしれない。

だいたい、国際社会がどうなっていようとお金があって、そこそこ健康なら、安心して生きていかれると誰もが思うものでしょう。
本当のことをいえば、少子高齢化も環境問題も、
とりあえず自分が生きていかれるのであれば対岸の火事でしかないのです。

たとえ病気になっても、お金があればなんとかなる。
年老いて一人ではどうにもできなくなっても、お金があればどうにかなるだろう。

でも、そのお金は、個人でも、国家レベルでも、創出するのが難しくなっている。
そのことを誰もがよくわかっている。

それと同時に、どれだけお金があっても
実はそれは真の豊かさや幸福を与えるものでもないということも、わかっているわけです。

では、どうすればいいのか?

ここで、多くの人は知らず知らずのうちに思考を停止するのではないでしょうか。

なぜなら、答えはなきに等しいからです。
なぜ、なきに等しいのかといえばすべて「自分の外側にある問題」であり、
また、そのようにみずから位置づけているからです。

ここが、とても鍵になるところです。

3.不安をつくりだしているのは自分

自分の外側にある問題によって悩んでいるということは、
自分を不安に陥れる問題が「自分の外側にある」としているということになります。

回りくどいように感じると思いますが
ここをしっかりと冷静に見つめなければ
不安の真の理由を知ることはできないでしょう。
そうである以上、不安を抱えたまま生きるしかありません。

そして、真の理由を知ることができたら
不安をコントロールして、不安からある程度、自由になり
生きていくことが可能になる
のではないでしょうか。

自分の「内」と「外」とは互いに影響し合い
共鳴し合っています。
「外」からの働きかけが「内」の状態をつくります。

ただ、どういうわけか、「内」というのは
「外」からの働きかけを実際以上に大きなものとして
受け止めてしまう傾向があるようです。
それは、人間が想像力を持っていることと関係あるのでしょう。
実際のものから、連想し、想像し、
いつのまにか空想物語をつくってしまうのです。

それが素敵な空想物語だったら良いのですが
暗い空想物語であれば憂鬱になってしかるべきです。

さらにそのうえ、単なる空想でしかないのに
まるで本当に起きてしまうのではないかという「リアリティ」まで
勝手に抱いてしまう。

これで「不安」は完成します。
それが日々、つもりに積もっていけば、
心の奥深くにまですり込まれていき、
いつしか潜在意識にまで浸透しきって
何をしても、どこに誰といようとも
「なんとなく不安」ということになるのでしょう。

4.潜在的不安の解決法

では、結局どうすればいいのか、ということになります。

まず、外側にある問題など、どうにもできないということを
本気であきらめることでしょう。

「本気で」です。
中途半端に期待を残したりしては苦しいだけですから。

科学万能の時代に生きていると、
多くのことを自分で成し遂げたと錯覚してしまいますが
実際は、人智を越えたものに助けられて実現をみるのです。
そうした思考をきっちりと自分の礎として据えておくと
外側にある問題など、ある程度、なんとか働きかけることはできても
それが解決できることになどならないとわかりますし、
解決できないからといって、必要以上に嘆くこともなくなります。

無責任に見えるかもしれませんが、その実、
私はこういう姿勢を、むしろ

天を恐れる

ということだと思っています。
本当の意味での、人間としての謙虚さとは
ここにある
のではないでしょうか。

一方、「内」というのは、自分次第で
ある程度は、何とか解決できるものです。

というより、唯一、

少しは自分の努力次第でどうにかできるもの

といっても過言ではないでしょう。

だから、外から影響を受けて
いたずらに不安を創り出す「内」を変えていき
不安を創り出さないように訓練する
のです。

と、言ったそばからハシゴを外すようですが
これは難しいです。

そんな簡単に不安解決などと、都合のいいことはないのです。

だったら今までの話はなんだったのか、ということになりますが

「解決できる」「結果を出せる」という基準をなくしたうえで

生きているということは、常に、こうした訓練をするものなのだ
訓練を終えるときは、死ぬときなのだ

そういう基本的な思考を持ってしまえば
さほど難しいことはなくなります。

これもまた、あきらめる ということです。

実は、ここまでの段階で、すでに解決法は半ばまで来ているのです。

ここからは具体的な方法です。

1.不安を感じたとき、「今、自分は不安になっているな」と意識する。

2.姿勢を正して、不安を感じている自分を意識しながら、腹式呼吸をゆっくり長く行う。

3.何度か腹式呼吸をしながら、「なるようになっていくのだろう、なるようにしかならないのだから」など、自分を自分でなだめてみる。

これで、少しは楽になるはずです。

不安になるたびに、腹式呼吸をして、自分をなだめるというこの方法は
坐禅や瞑想からヒントを得ている・・・
というより、そのものといってもいいでしょう。

私は17歳の時からヨガをしているのですが
健康や美容より、自己コントロールが目的でした。
ちょうど同じ頃から坐禅も始めたのですが、それも同じ目的です。
そうした経験から得た、非常に簡単な方法が上記です。

ほかにもあります。

テレビや新聞、ネットなどからの情報を断ち切ること。

情報化社会では、
誰もがいち早く情報を得なければと躍起になっているように見えます。

「情報弱者」などという言葉が生まれるのも
そんな意識があるためでしょう。

そういう見方からすると、私は実に「情報弱者」ですが
何も困りません。
むしろ、感覚(第六感や霊感?)が冴え渡って
人々の創り出す想念などをつかみやすくなりました。

(ちょっと仙人の気分)

そして、自分にとって必要な情報は、必要なときに得られるものだ
というのが、今の実感です。

だから、何も慌てることはないのです。

情報から離れていると、「外」の影響が極端に減るので
当然ながら「内」をコントロールしやすくなります。
無駄が極めて少なくなるのです。

たぶん多くの人が、情報を断ち切ることに不安を覚えることでしょう。

でも、何にしても慣れですし、これだって訓練です。

5.祈りの力を呼び覚ます

具体的な解決策を2つ紹介しました。

たぶん拍子抜けしたことでしょう。
なんだ、そんなことか、と、思われたかもしれない。

でも、自分を見つめて、正しく把握して、その自分をコントロールする

「そんなこと」であるはずのものが
どんなに難しいか、

しかし、ある程度できるようになれば
どんなに効力を発揮するか
これはもう実際に長年やったひとでないとわからないと思います。

そして、この方法を行って、経験が積み重なってくると
ある時点で、つくづくわかることがあります。

それは、自分さえ、どうにかするには限界がある
自分一人のことさえも、どうにもできないのだ

ということです。

なんだ、「内」をどうにかするしかないといったくせに、と
また言われてしまいそうですが・・・。

呼吸をコントロールできても、心臓の動きや
胃腸の働きなどを意識でコントロールすることはできないのが人間です。

それを突き詰めていくと

自分の寿命さえ天の采配によるのだ

ということが、つくづくわかってくるのです。

なんだ、生きてると思っていたけど、
「生かされている命」を生きているのか
、ということに気づくのです。

するとますます、自分の力などたかがしれているとわかってくる。
自分でできることは、実に少ないのだと、思い知る。

そこに至ったとき、
心の底から、祈りがわき出てくるのです。

便利な物に囲まれて、自分の力で生きていると錯覚している現代人と違って
病気をしても、ほとんどどうにもできなかった昔の人は
人間の限界を早くに思い知ることになります。
だから、朝晩、神仏に祈りを捧げながら生きていたのでしょう。

科学万能の現代人のほうが、そうしたことを悟るという点では
実に、遅れているのです。

ただ、それでもなおかつ

最後には祈るほかない

ということを、多くの人が心のどこかで理解しているはずです。

その思いをもっと信じていくことではないでしょうか。

私は、毎朝、まず神棚にお参りをして
それからお仏壇の前に正座して手を合わせます。

この「手を合わせる」という行為そのものも
神仏と自分を「合わせる」ことであるともいわれています。

手を合わせると無条件に心が落ち着くのは
はるかな先祖が、ずっと行ってきたからかもしれません。

一日のうち、わずか10分程度の時間ですが
ちゃんとお参りして、祈りを捧げたときは、心が安定します。

『仕事で活かす武士道』(内外出版社)は
北条重時の家訓を現代風に読み解いたものですが
まずいの一番にある教えが

「祈念の力を忘れるな」

なのです。

祈り、念ずることによってもたらされる「力」
それは、どんな時代も強く乗り越えていこうとする「力」です。

約800年も前の教えを、この不安になりがちな時代にこそ
思い出すべきなのかもしれません。

(了)