真の成功とは
いまや「成功」という言葉を聞かない日はないというくらいになりました。
そして、「成功」について語られるのを目にする度に、私はついカチンと来てしまいます。
いったい、成功とは何であるのか。
大半が、それをわからぬままに、実にお気軽かつまことしやかに語られているからです。大半というより、すべてといってもいいでしょう。
しかも、ことあるごとに「徳」だとか「利他」といったことを語る媒体ないしは個人さえもそうであるのですから、私がカチンときてしまうのも、どうかご容赦いただきたいのです。
いま、語られている成功とは、所詮は現世における三次元的な成功です。そこにとどまっており、それを成功と見なし、つまりは人生の価値であるとしています。
そんなことがあるたびに想い出すのが、新渡戸稲造が『自警録』で確固として述べている「成功とは何か」という言葉です。
世には成功熱にうかされている人が多い
『自警録』(講談社学術文庫)の【第十章 人生の成功】から抜粋していきます。
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世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようとし、また失敗を免れるためには、いかなる事をも憚らない人が多い。
すなわち成功熱に浮かされている人が多い。
しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名利である。
この成功あるいは具体的に言えば名利を貴ぶの結果として、人格を計るにさえ名利を標準とする者が多い。(ここまで引用)
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今現在、「成功」といわれているものも、結局のところ具体的には名利でしょう。
しかも、自分が生きている間に、それも、できるだけ早く得たいというのが本心であり、周囲の人々もまた、そのようにして名利を得た人を成功者と見なします。
そんなことをしていると、人間が小さくなるのではないかと私は案ずるばかりです。
勝海舟は、「今の人は、いま何事か成して、いま評価されないと承知しないというのだからしょうがない」ということを述べています。明治の人に対してこう言っているのですから、現代人となればいったいどうなるのでしょう。
名利が来ようが来まいが頓着することはない
歴史を学んでいるとつくづく思うことがあります。
無私の境地で非常に正しく立派なことを世のために成し遂げた人物が不遇に終わることなど決して珍しいことではありません。
そして、その時代にはまったく評価されることなく、忘れ去られることさえある。
けれど、何かの拍子に、「この人物はとてつもない偉人ではないか!」という評価がされることが多々あります。
つまり、この世を去ってから、人々から感謝と尊敬を以て遇されるのです。
そのような人物の多くが伝記などで「人としてのお手本」として語られています。
もちろん中には、その当時も高く評価されていた人物もいます。
ただ、そうした人物も、今、評価されようとして何事かを成したわけではないのでしょう。
一見、相反する存在に思えますが、彼らには共通点があります。
それを再び『自警録』から引用しましょう。
名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を傷つけたり、また己の本心に背いて得るものと、天より降る露のごとくにおのずから身に至ものとがあろう。
といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己の正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。
真の成功なるものは、己の本心に背かず、己の義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己の本心に背き、己の任務を怠るにある。
ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものではない。(『自警録』より)
新渡戸稲造は明治のころに
日本人らしい美徳を失ってきたことに対する危機感を抱いて『自警録』を著したのではないかと考えます。
その姿勢は、『茶の本』を著した岡倉天心にも通じます。
明治の急激な近代化や欧化主義は、日本人にアダムとイブが手にしたリンゴのごとく、「新しい知識」を授けたのでしょう。
それは時代の流れですから仕方がありません。
そこへ敗戦と、戦後の経済的復興が来て、私たち日本人は本当にかつての日本人とは異なる価値観を抱くに到りました。
それも致し方ないことでしょう。
けれど、これだけ歴史を学ぶ人が増え、また日本の精神を学び直し、貴んでいこうという動きがあるのにもかかわらず、なかなかそうは問屋が卸さないのは、どうしても「名利」を「成功」とする意識から脱することが出来ないからだと私は思っています。
昨今の醜悪としかいいようのない企業の堕落も、無関係では無いとみています。
しかし、この流れは止めることはできないでしょう。
悲観的になっているのではなくて、人々の想念がますます「名利大事」に傾いていることを感じているのを冷静に受け止めているのです。
そうした中で何が出来るかといえば、やはり「己に徹する」ことなのです。
まさに、
己の本心に背かず、己の義務と思うことを淡々と行っていく。
そして、
結果を先に求めない。
これに尽きます。
